阿南町の歴史を訪ねる

関昌寺の山門

戦国の世に咲いた鎮魂の寺

裏切りや策略が日常茶飯事だった戦国時代は、血生臭い事件の連続です。下条氏だけを見ても、内部抗争に乗じた徳川家康の策略で最後は破滅の道へと歩んだとされています。下条氏最後の領主・12代目下条康長(やすなが・幼名は牛千代丸)が跡目をついだのはわずか10歳の時。下条康長の「康」は徳川家康から拝受した名前で、破格な扱いを受けていたことが伺い知れます。父親・下条信正は、織田信長が伊那谷へ侵攻した際に黒瀬谷に落ち32歳で死亡。
その3回忌の天正12年(1585年)、菩提を弔うために康長は関昌寺を創建。領主となった翌年のことでした。下条氏最初の仏寺である開眼寺(廃寺)から薬師如来を移して本尊としたことから、正式には医王山関昌寺(いおうざんかんしょうじ)といいます。江戸時代には郡内屈指の大きなお寺でありましたが、その後2回火災にあって再建。山門は円柱の4足門で、呟龍の立派な彫刻がほどこされています。参道の両脇にはヒノキや杉の巨木が茂り、うっそうとした寺叢(じそう)を形成しています。

関昌寺の’昌’は栄えることを意味している

宮下家住宅

和合の宮下家住宅

宮下家住宅は、江戸時代中頃なかごろ(1700年頃)の建築で、長野県の中南部に見られる本棟造ほんむねづくりの母体と考えられる「棟持柱むなもちばしら構造」が特色の民家住宅である。外観からもわかる棟持柱は、水平に伸びる棟木むなぎを直接支え、民家建築の技巧や変遷を見る上で貴重である。

菅原道真が先祖といわれる宮下家は、1332年に遠州宮口(現静岡県浜松市宮口)より、「大明神だいみょうじん」を携えてこの地に移ったとされる。熊野社にはこの伊良湖大明神も祀られている。また、林松寺の創建にも関わっている。

江戸時代に庄屋をつとめてきたことから「大家おおや」と呼ばれ、16代金吾善衡きんごよしひら雷公吾郎らいこうごろうすけ)が川中島より念仏踊りを伝えたといわれている。8月13日から始まる「和合の念仏踊り」は、宮下家の庭も舞台の一つで昔の面影を今に伝える。

犬坊の墓

井上靖の小説「犬坊狂乱」の題材

阿南町を語る時に欠かせないのが戦国武将の関氏(せきし)と下条氏(しもじょうし)の対立です。井上靖の小説「犬坊(いぬぼう)狂乱」の原案となった有名な話があります。

犬の首を頭にのせた「犬坊の墓」

権現城 別名”和知野城”と呼ばれ、関氏最後の砦。天文7年から居城した。

関氏は和知野川から南の下郷5ケ村を所領としていましたが、高冷地が多く、実りが少ししかありませんでした。そこで戦を重ねて大下条周辺の18ケ村を領土に加えました。最後の領主となった関新蔵盛国(せきしんぞうもりくに〉はわずか5年間で三つの城を築くほどの勢いで、おごりたかぶっていました。鹿狩りと称して山中の木こりや旅人を鉄砲で撃ち殺したり、築城においては石材を運ばせたり(延ベ3120人を使った記録が残っています)、怠ける者にはバラの刺を打ったりしました。盛国は一族の重鎮たちの申戒めにも耳を貸さず、年貢を厳しくとりたて、嫁とり婿とりなどの婚礼にも税をかけたために、配下の武士からも領民からも不満が高まっていきました。こうした関氏の事情を知り、下条氏は天文13年(1544年)に月見の宴で酔いしれていた盛国の最後の居城・権現城〈ごんげんじょう)に夜襲をかけました。城内には敵方に寝返る者も多く、盛国に目をかけられていた18歳の若者の犬坊は、すでに盛国が持つ刀の目釘を抜き、弓の弦を切って台所の釜の陰に隠れて待っていました。犬坊は槍で盛国の右脇腹から肩先までを突き、その傷がもとで息絶え、家来の坊主が火を放って落城させました。
犬坊は盛国をしとめた手柄に下条氏から大小の刀、米12俵の目録を拝領して意気揚々と帰ってきました。ところが突然狂いはじめ、どこからともなく現れた白いまだらの犬に向かって「盛国殿が出た」とわめきながら刀を抜いて犬と戦ううちに足を滑らせました。すかさま犬は犬坊に飛びかかり、喉笛を噛みきりました。人々は恩をこうむりながら主君を殺した報いだと語り伝えたということです。

古城八幡社

下条氏最初の居城

古城八幡社(ふるじょうはちまんしゃ)は、天然の要塞となるような周囲から際だってポッコリと盛り上がった小山の上にあります。下条氏の初代頼氏が居城としたもので、内部には珍しいことに八幡社本殿と摂社諏訪社本殿との二つが祭られています。この社殿は京都文化の地方への浸透を物語るものとして、国の重要文化財に指定されています。

今でも地元の人たちの信仰が厚い古城八幡社

瑞光院

近隣の厚い信仰を集める

関氏が最初に居住した台地上原野の「瑞光庵」跡には、庵よりも古い樹齢600年以上といわれる大イチョウが大腕を広げ、紅葉の季節には見事に黄色く染まります。瑞光院(ずいこういん)は、関氏二代目の盛国(もりくに)が父盛春の菩提を弔うために創建した名刹です。その名前は関氏発祥の地である伊勢の古刹瑞光寺にちなむといわれています。
瑞光院は祈祷による悪霊鬼神の退治、霊泉の発掘、医療救済などの現世利益に力を注ぎ、仏教の恩恵に浴していなかった民衆へと浸透していきました。このように広く信仰を集めたことで、武田勝頼による庇護、敵対する下条氏による庇護につながり、伊那谷南部の有力寺として重きをなしていったのです。

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