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町政情報
町名について「あなんまち」と「あなんちょうの」どちらが正しいのか、阿南町の名前の読み方について知りたいというお問合せをよくいただきますので、その背景と町名の由来をご紹介します。
長野県の町で唯一「ちょう」と呼ぶのが当町です。全国的には、東日本では「まち」、西日本では「ちょう」と呼ぶところが多いようです。阿南町に近接する静岡・愛知・岐阜の各地域では「ちょう」と呼びます。昔から、阿南町は他地域との交流の盛んなところだけに、その影響があったのではないかといわれています。
町名: 阿南町(あなんちょう)
阿智川以南の地域は、江戸時代は「下條・南山地方」と呼ばれていましたが、明治の中期から下條村・旧富草村・旧大下條村・泰阜村の地域が「阿南」と呼ばれるようになりました。
飯田線の開通により天龍村(旧神原、平岡村)も「阿南地方」に含まれようになり、旧旦開村(現在の新野)も合併により阿南町となり、その隣りの売木村もそう呼ばれるようになりました。
さらに警察の管轄区の関係で旧南信濃村・旧上村(ともに現在は飯田市)も呼ばれるようになり、下伊那郡南部全体を指すようになりました。
江戸時代の文献には「阿南」の文字は見当たりませんが、明治24年に下條・富草・大下条・泰阜の青年たちが集まって、『阿南青年会』を組織し、(下伊那青年運動70年史による。)これが「阿南」という名称が使われた最初で、「阿知川の南だから阿南」という考え方は、当時の若い世代によるものだったといえます。
明治20年代に「阿南」と呼ばれ始めたと思われ、明治末頃には「阿南新聞」が発行されています。大正の末頃、下伊那教育会の阿南支会という名前が登場しました。(ちなみに「阿南のうた」というのはこの会の歌であり、阿南町の歌ではありません。) 阿南病院が昭和21年、阿南高校が昭和25年、阿南警察署が昭和27年、阿南町が昭和32年誕生しています。
「阿南」は終戦後には定着していて、「阿南町」が誕生する前から「阿南」の名称が使われていたのです。
(余談ですが、当初今の名前で県の教育委員会に申請しましたが、創立当時「長野縣下伊那阿南高等学校」で決定しました。下伊那農業高等学校と間違われると不評のため、昭和32年阿南町が誕生する頃県へ申し込み、現在の名前になりました。)
応募総数は300通にのぼり、95種類に及びました。最終段階で5つの候補名が残り、最後に「阿南町」「南信濃町」の2つに絞り込まれました。これについて再三検討した結果、以下の理由によって町名が決定しました。